2016年12月20日火曜日

江戸文化を学ぶ・神田明神の歴史とお祭り


講師紹介
清水祥彦氏、東京都出身、神田神社権宮司
以前神田雑学大学で講師されていたので、今回講演をお願いしました


1) 地域とお祭り
5年前の東日本大震災でボランティアに行った人、義援金を送った人、身内に辛い思いをした人などいろんな人がいる。フィリピンでは台風後に商店が略奪されている。日本でこのような事件は起きなかった。神様や仏様など目に見えない存在を通して謙虚な人間のあり方に立ち返ることを大震災は私たちに教えてくれた。大震災の年5月、神田祭りに向けて準備がピークに達していた。当時TVなど広告を自粛していたように、神事としての神田祭は行ったけれど賑わい行事としての神田祭は中止となった。



大震災から3ヶ月後の新聞に、石巻では復興をお祈りして漁具や瓦礫でお神輿を作って何もなくなった街を練り歩いたとの報道があった。また地域がバラバラになるのを祭りでつなぎ止め、供養をするのも祭りの意味だとの記事もあった。神社的には違う意味もあるが、心を一つにするため地域復興の祭りが大切になされていた。元々東北の人達はお祭りが大好きで信心深いと聞いている。日本人が受け継いできた祭りがどういうものか改めて認識して頂きたい。


2) 日本人の原点
伊勢神宮遷宮という儀式は、腐った本殿を20年に1回作り変える。平成25年に伊勢神宮は20年ぶり、出雲大社は60年ぶりのご遷宮が重なった。神様の世界も年を経ることによって力が弱くなり、衰えた命を絶える事によって新しく蘇らせるのがご遷宮とも言われている。神様も人間も命に限界があり、新しく蘇ることによって新しい力を得ていくのが日本の文化だ。



21世紀の最先端の技術を持った日本の中で、1000年以上前の儀式が毎朝、毎夕繰り返されている。ひたすら愚直に繰り返して目に見えない神への儀式が古代さながらに繰り返されている。伊勢神宮では神主が神様のお食事を作るために毎朝火切りという儀式をやらなければならない。
震災があちこちで起き、皇室がその度に被災地を訪れて多くの被災者の方にお言葉をかけていることはTVやラジオを通じてご存知の通りだと思う。古代から受け継ぐ天皇家という存在が日本人の心の中心にあって、憲法が定める象徴としての陛下の心が受け継がれている。天皇家の原点は宮中三殿という賢所、皇霊殿、神殿や神嘉殿で永遠の祭祀が繰り返されている。天皇陛下はアメリカの大統領がいらっしゃる時、また国会の開会式、大きな国民大会の開会式では背広でご挨拶され、ご対応されている。



実は天皇陛下にとって最も大切なお仕事は、日本国が常に安泰で国民が幸せに過ごせるよう神々への祈りを込める事であり、神主や神社の原点でもあることをお知り頂きたい。ギリシャやローマ神殿は世界遺産でしかなく、祈りを純粋にささげる方々はいない。古代ギリシャ神話やローマ神話の世界はあちらにはない。それにもかかわらず日本では、未だに古代の神々がキリスト教やイスラム教に支配されることなく現代まで受け継がれている。祖先が選んできた信仰のあり方に感謝したい。伊勢神宮は2つの敷地がある。1つにはご社殿が建っており、もう1つには広く玉砂利が敷かれ小さな小屋しかない。この小屋に心御柱という聖なる柱を立てる。日本人の心の在り方が、こんな粗末な小屋に原点があることを感じてもらいたい。

3) 江戸文化と神仏
祭りとは非日常的な社会劇とも、祖先が受け継いできた神話を儀礼で再現するもの、人々が喜びと安堵を共有するものとも言える。祭りは日本の文化資源であり、グローバル社会の中で見直すべきものである。アベノミックスがうまく機能せず私たち日本人が精神的困難時にこそ、祭りにより立ち直りを経験してもらいたい。
祭りの言葉の意味は諸説あるが、私は神の訪れを待つ説を取っている。祭りは人々の絆を深める儀礼である。
 


江戸の町は災害の都市だった。江戸時代の錦絵には地震・雷・火事・親父が描かれている。この160年間で東京は3度も壊滅的な被害を受けている。約160年前の安政大地震、約90年前の関東大地震、約70年前の東京大空襲だ。この壊滅的被害から江戸・東京は復興してきた。神田明神の建物は日本初の鉄筋コンクリート製の近代的神社だった。関東大震災で焼失したため、当時の神職達が二度と燃えない御社殿を作りたいと反対を押し切って作ってしまった。その結果、東京大空襲で神社は燃えることはなかった。


歌川広重の神田明神曙之景は安政大地震の2年後の、まだ復興は遂げていない江戸の町に神田明神から希望の朝日が昇っている様子を描いている。また画面中央の木は天と地を結ぶ聖なる木であり、神様の姿を示している。江戸を作った太田道灌、江戸の町を立派にしていった天海僧正、徳川家康、徳川家光だった。江戸の鬼門・うしとらに神田明神、寛永寺を、裏鬼門・ひつじさるには日枝神社、増上寺を配している。江戸の町の都市計画は単に合理的なものだけではなく、目に見えない神仏によって平和が保たれていた。

4) 神田明神とお祭り
神田明神は天平2(730)出雲家の人々によって作られた。平将門公を霊威とし関ケ原の合戦に臨む際に戦勝祈祷を行い勝利したことで、大変縁起の良い神社として徳川家の守り神になった。1番目のご祭神は大己貴命のだいこく様、そして2番目も出雲の神様である大己貴命のえびす様、3番目が平将門公。「強きを挫き弱きを助く」義侠の心を持った方で、江戸っ子の心の原点になっている。また世直しの神様としても親しまれている。欧米、中国では勝ったものしか尊重されないが、日本では戦いや悲劇の中で死んでいった方々を大切にすることが神様への信仰の道につながっている。「将門の怨念打ちつけ首が飛んで石をがりがり神田(噛んだ)」という歌に神田の名前の由来があり、何故神田明神が江戸の総鎮守になったかが分かると思う。

江戸の三大祭りというと、浅草、深川の祭りがそれぞれ一番と思っている人もいる。しかし江戸時代は、江戸城の中に入ることが許された徳川将軍公認のお祭りを天下祭と言い、神田祭そして山王祭と根津祭が江戸三大祭りであり、日本の三大祭りは京都祇園祭、大坂天神祭、江戸の天下祭だった。



 神田祭は江戸総鎮守であると同時に徳川将軍の上覧を頂いた祭りであり山王様のお祭りと2年に1回行われる。お祭りには歴史的文化的な深い意味がある。神田祭のオープニングは静かな夜に神様をお迎えする御霊入れから始まる最も神聖で大切な儀式だ。そして頭たちが謡いながら数千人の行列が続き、さらには巨大な戦艦のような神輿で賑わう。若者の町である秋葉原の6車線の道路が100200基弱の神輿と人々で埋め尽くされ伝統が受け継がれている。朝から晩まで11基の神輿が5分ごとに宮入していくのが神田祭のハイライトで喜びを共有しながら神仏のご加護を頂き、古代から受け継いだ日本人の心を再現するのがお祭りの意味だ。また互いに助け合うことによって様々な災害が起きた時の地域復興支援にお祭りでの経験が生かされる。



 北条時代の神田祭はお能の祭りとして、そして江戸時代初期は船が中心となった。江戸時代中期は陸上交通網が発展して、収穫祭として山車を使った祭りになり、幕末になると巨大な山車に変化していった。江戸型山車の構造は2輪で、江戸城の城門をくぐれるように3階層になって上下に稼働するようになっていた。江戸から東京に変わって近代国家になり山車から電線をくぐれる神輿に変わった。
また昔の神田祭は、山車と山車の間に附け祭というパレードがあった。それは百花繚乱でディズニーランドのパレードのようなお祭りが江戸の真ん中で繰り広げられていた。TVもラジオもない時代なので、お祭りが流行の最先端を知るチャンスだった。浮世絵師・國周のデザインセンス、葛飾北斎は1999年世界で最も偉大な業績を残した100人に選ばれた。歌川広重の版画をゴッホが模写、モネも浮世絵にかかれている庭を自宅に再現していた。当時のトップスターである市川團十郎の版画が神田祭でかけそば一杯の値段で売られていた。




ヨーロッパの絵は一点ものだったため特権階級のアートだった。ところが日本では庶民がアートを楽しめた。また江戸時代の人々は、一ノ谷凱陣(鍋町)、熊坂長範の山車・牛若奥州下向(連雀町)、彦火々出見の山車(佐久間三・四)など神話や中世の御伽草子などを共通の文化遺産として楽しむ教養と素養を持っていた。現在、私たちは全くそれらを受け継いでいない。日本人の祖先が持っていた美しい心と文化を一人でも多くの方と共有することを願って「大鯰と要石」、「大江山凱陣」を神田祭で復元した。アニメも日本の重要なカルチャなので、「ケロロ軍曹」も楽しんでもらった。皆さまにも地元のお祭りに参加して、日本人の心、文化、信仰を改めて見直す機会になってくれればと思っている。祭りは常に新しい。伝統は絶えざる変革の積み重ねである。自己変革に成功した文化である。伊勢神宮も100%古代の方式を繰り返しているわけではない。時代と共に少しずつ形は変わってきている。それでも、古代の形を継承して行っているところが日本の文化のあり方だ。私たち祖先が歩んできた祭りを通して道を考えてもらいたい。



質疑応答
1.    お祭りの神輿は、江戸時代から始まったのか。地方では秋に収穫祭が行われ、その時に神輿はなかったのかと疑問に思った。
→ お神輿そのものは奈良時代、大仏開眼に宇佐八幡宮から東大寺に向けてお神輿に御霊を乗せたという記事が残っている。
2.    皇居に入る時に低い門があり、神田明神の山車が通れなかったので、上下に伸縮する山車が出来たと聞いた。電線以外にも、このような事情で山車から神輿に変わったのか。
→ 田安門を通る時に、確かに山車を上げ下げした。町中に電線を張りめぐらされて上げ下げしているとお祭りの体をなさなくなる。当初、江戸の庶民は電線をぶった切って山車を通していたが、それを繰り返していてもしょうがないので、山車を地方都市に売却して、そのお金でお神輿を作ったと言われている。神田明神のお祭りでも江戸時代、山車は50基以上あったが、お神輿は2基しかなかった。当時神様は2柱だったので、2つしかなかった。
3.    お正月に商売関係の人たちが多数参詣していると思う。いつから商人が訪れるようになったのか。
→ 江戸時代には初詣という風習はなかった。鉄道は元々有名な神社仏閣と町を結ぶことが中心だった。その鉄道会社が高度経済成長時に国民的な行事として宣伝して始まったので、その歴史は浅い。企業の人達が初詣するのは数十年の歴史しかない。バレンタインのチョコレートと同じ。
→ お参りする時に何を祈るか。私はなるべく願い事はしないようにしている。今日は有難うございますと毎日お参りさせてもらっている。作られた伝統は見直して欲しい。
4.    神田祭のお神輿が200基近くもあるというのは、神事よりもイベントの要素が強まったと考えて良いのか
→ 農村社会におけるお祭りと異なり、都市のお祭りは時代とともに変わってきた。都市における祭礼は風流や、その時代のトップモ―ドの場でもあった。そして為政者の意図からお祭りがイベント化したが、お神輿100基には神主さんがお祓いをして、御霊をお納めしている。従って信仰に基づく担ぎをしている。ローソクの火はいくつに分けても、次から次へと受け継がれている。神道の場合、一人の神様がローソクの火のように全国津々浦々にいらっしゃる。
5.    氏子でない有名神社のお祭りに参加していても良いのか。また神社の成り立ちに関わりのないものが、お参りしたり御朱印を集めるのは問題か。
→ 本来神社は、祖先神を子孫たちがお参りするものだった。そして地縁のつながりで氏子が拡大。特に地方では、お祭りをよそ者には見せないという所がたくさんある。都市のお祭りが開かれたものになったのは、為政者の意図による。
→ 神田明神のお正月には、御朱印が1日千件以上求められる。しかし5年前には、100件ほどしかなかった。ブームは凄いと感じている。
→ 神田明神と成田山は元々敵同士。戦前神田の住民は将門様を成田不動の呪詛によって倒されているので、絶対成田山をお参りしなかった。また神田の小学校が子供たちを成田山に連れて行くと言ったら反対運動が起きたくらいだった。一神教の国だったら、未だに戦いは残っていたと思う。 


参考
神田祭





開催日時 20161126() 18時~1930
会場  駒込地域文化創造館  第1会議室
参加者33名 マナビト生、豊島区民、豊島区民外

     
                                                                                                                                      

受講者の感想
1) 江戸の人は誰でも知っている日本昔話を全然知らず、これを機に勉強します
2) とても良かったです
3) もっと時間が欲しかった。レジメがあれば、なお良かった

4) 鬼門、敗者を尊ぶ、略奪なき地震、山車のお話やお祭りの意味の深さを初めて知った。又、江戸の識字率に驚きです。日本って凄いんですね。今回の講演を機に近代化が失ったものについて、もう一度考えてみたい。初詣の歴史が浅いのは意外でした。町会は祭礼をどう理解しているのだろうと思いました。
5) 明治文明開化が神田明神のお祭りを変えたのですね。知らないことを教えて頂くのは楽しいです。有難うございました。
6) ああそうなんだという、普段思ってもいなかったことが分かるような内容の講座を希望します

7) 日本人の心を再認識しました。大変良い話しを有難うございました
8) 本日は講師に興味を抱いて参加させて頂きました。思いがけないお話を聞くことが出来、すがすがしい気分になりました。
9) 後方の席のためスライドの下の部分が見えなかった。もう少し上げて欲しい

10) 駅から近い会場でとても参加しやすいです。後ろの席では映像が見にくいので、もう15cm  げて下さい
11) 祭りを通して文化遺産の素晴らしさと継承していくことの意義を再認識させて頂きました
12) 内容が充実、系統だって分かりやすく基本的な日本の文化を語って下さった。もっと日本の若い世代に伝えてゆきたいし、教育の場に取り入れて欲しい。世界で日本の心を自信をもって語れる教育をして欲しいと思います。